国語ができる子どもを育てるために⑦ 読解の(国語の)基礎体力その2

みなさん、こんにちは。大和田本校の小林です。
2中のテスト対策でこちらの更新がすっかりおざなりになりました。
申し訳ありません。
さて、長かった基礎体力2のまとめです。

人が「自分が直接体験したこと」からのみで知を蓄えるとなると、
それはそれは乏しいものになってしまいます。

そこはそれ。先人が学んだものをいただけばいい。
悲しいかな、私たちに与えられた有限の時をすべて使っても、
読み切れないほどの古典的名著や現代の優れた書物があります。
読まない手はないと思います。

乱読のすすめをしたのは上記のようなことからです。
つまり、多ジャンルを乱読することで様々な形の知に触れることができます。
いうなれば(受験的)背景知識が手に入ります。

けれども、受験に限定なんてしたらつまらない、もったいない。
多ジャンルの乱読を積み重ねていくと、やがて全方位的な知識となります。

ある分野の知Aと、別の分野の知Bが結びついて、新たな知Cを得ることができる。
実はこのことは2020年度以降の新入試制度で求められることでもあります。
(勉強会で分かりました。よかった、出席して。)

一例をあげてみたいと思います。
例えば小林は生徒の合格を祈っています。
この「祈る」という言葉は、いい意味で使われていますね。
一方(そんなことはありませんが)「あいつなんか落ちてしまえばいいのに」と「祈る」とします。
これは悪い意味での「祈り」で、通常それを「呪う」と我々は言いますね。

では、「祈る」と「呪う」は反対かと思うと、実は語源が同一で
ノル」(超越的存在に対して言葉を発する)と言われています。

「祈る」「呪う」という言葉だけを見ていたらそれは(偏った)宗教学的理解にとどまります(知A)。
ところがここに言語学の要素を持ち込み、語源が同一であると知る(知B) 。
すると今までよりも言葉に気をつけるようになる(かもしれない、ちょっと強引かな)(知C)。

ある分野の知Aと別の分野の知Bが結びついて、新たな知Cを得る
受験的にはテーゼアンチテーゼからジンテーゼを見出すと説明してもいいかもしれません。

これを続けていくことができる人、様々な知を紡いでいける人を、我々は教養人と読んでいます。
小林は教え子に教養主義を掲げたい。そして自身が教養人になりたいと思っています。

「教養とはなんぞや。教養主義とは何ぞや。」

その辺りは例えば竹内洋先生の『教養主義の没落』をご一読ください。